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講師 立花 明子の歴史
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皆さまに聞いて頂くほどではないかも知れませんが、ここでは自分史をお話します。

田舎育ち

が生まれたのは、兵庫県赤穂市坂越という小さな漁村。

目の前には瀬戸内海が広がり、後ろは山、という豊かな自然に包まれた環境の中で産声を上げました。

痩せ型の兄に比べて、私は赤ん坊の頃、コロコロに太っていて、太い足のせいで「かぶらチャン」と呼ばれていたそうです。

そのせいもあって1歳半くらいまで歩かなかったので、両親は随分心配したみたいです。

それでもようやく、つかまり立ちし出すと、ラジオから流れる音楽に合わせてお尻フリフリ。

特にお気に入りは「笛吹き童子」…これで年がバレてしまいそうですね(笑)

子供の頃、戦争の為にピアノを途中でやめざるを得なかった母は、私には小学校に入るとすぐに、ピアノと、クラシックバレーを習わせてくれました。


音楽道楽の親戚

小さな漁村に暮らしながら、なぜピアノを習うことができたのか…

それは、隣り町で工場を経営していた親戚のおじいさんの存在があったからです。

そのおじいちゃんの家のサロンには、当時珍しい自動演奏ピアノがあり、また自身もバイオリンが好きで、有名なバイオリニストや声楽家を招いてはサロンコンサートを開いていた時期もあったそうです。

私が物心ついたころには、もうそんな華やかさは無かったけれど、遠くの町からピアノとバイオリンの先生を週に一回呼んでくれて、そこへ私はピアノを、兄はバイオリンを習いに行くことが出来ました。


教育ママ

 とは言え、隣町までは遠く、海岸線沿いの数キロのでこぼこ道を、母は私を自転車の後ろに乗せ、毎週レッスンに通わせてくれました。

学校から帰ると、母は必ず横について私がピアノの練習をするよう促してくれました。(見張っていた?!)

練習が終わると必ずおやつをくれ、それを持って外へ一目散に遊びに行く…というのが日課でした。
おやつ欲しさに、毎日1時間ほどもピアノの練習をしていましたが、時には近所の友達が羨ましく
、教育熱心な母を恨めしく思ったことも・・・・今となっては、只々感謝なのですが。

小学校も高学年になると、私に自主性が出てきたからか、母はあまり干渉しなくなりました。


ハモりぐせ

ある日、近所に住んでいた祖父の家に興味深い家電製品(?)がやって来ました。

今の録音機器に比べると、何十倍もある大きなオープンリールのテープレコーダーです。

私は、何度も自分の声を録音再生しては、初めて聴く「自分の声」にびっくりしました。

〜私の声って、こんなにか細いんだぁ〜

回転を速くしたり遅くして、別人のようになった声を聴いては笑い転げたり・・・・

即興で作った曲を、遊びに来ていた従妹に(無理やり)歌わせ、適当にハモってそれを
録音したり、それでもまだ飽き足りずにフリまで付けて、祖父母に披露したり・・・・

従妹や周りの迷惑なんてお構い無しでした。

私には、それが面白くてたまらない「あそび」だったのです。


音楽の素晴らしさに目覚めた中学生時代

父の仕事の都合で、小学校卒業と同時に大阪に引っ越して来ました。

田舎育ちの私でしたが、都会の中学校に馴染むのにそう時間はかかりませんでした。

ブラスバンド部に入り、クラリネットを吹いて合奏の楽しさに目覚めたこと、バイオリンを

続けていた兄の影響でオーケストラの素晴らしい響きに魅了されたことなど、音楽に
包まれた環境のなかで、多感な中学時代を過ごしました。

ある日、母が「いい映画が来ているから観に行こう」と言いました。

小さい頃から、父には怪獣映画などによく連れて行ってもらったものですが、母から誘
われたのは、初めてだったように思います。

当時、最新のシネラマ映画で「サウンド・オブ・ミュージック」!!

ミュージカル映画は、「南太平洋」についで2本目で、何気なく母に付いて映画館に行き
ましたが、観終わったとき、私の胸の中は感動に満たされていました。

ーああ〜なんて素晴らしいんだろう!なんて「音楽」ってステキなんだろう(*^_^*)

それは、雷に打たれたといっても良いくらいの衝撃でした。



コーラス三昧の高校時代

進学した高校では、ブラスバンドではなく、コーラス部に入りました。

元来「ハモり好き」でしたし、「サウンド・オブ・ミュージック」で聴いたジュリー・
アンドリュースの歌声に魅せられたこともあったと思います。

そのコーラス部は、当時なかなか繁栄していて、優秀な先輩が沢山いました。

その実、私が1年の時 NHKの合唱コンクールで最優秀に選ばれ、近畿大会まで出場
したことがあります。

優秀なクラブは大抵そうでしょうが、クラブの練習は厳しく、体育会系並みに朝練もあった
ように記憶しています。

大学生のコワ〜イ先輩から、厳しく指導してもらったこと、夏休みには吉野の山に籠って
8時間ほども歌い続ける合宿があったことなど、今では懐かしい思い出です。

ただ、まだまだ声が未熟だった私には、発声練習が苦手に感じられる部分もありました。

ー思うように声が出せたらなぁ・・・・何度もそう思いました。

2年の時、音楽の先生(恩師)から、音楽大学への進学を奨められ、何の迷いもなく進路
を決めました。



「発声」に迷った大学時代

大学では、声楽を専攻しました。

しかし、当時は「ボイストレーニング」という言葉すら無く、発声は自ら会得せよ・・・みたい
な風潮があったか、私自身の研究心が足りなかったか、教授からは具体的な発声の
指導は殆ど受けることが出来ませんでした。

世界的に有名な歌手の声を聴いて、少しでも近付きたいとマネをしても、録音を聴いて
ガッカリ・・・

それもその筈、声帯筋やその周辺の筋肉の動かし方や、腹筋との繋げ方など、全く分
かっていなかったのですから。

高校時代に抱いた「発声」に対する苦手意識は、ついに払拭されないまま大学生活を
終わることになりました。

そして、同級生の多くが音楽教師の道を選びましたが、私は音楽事務所に就職しました。


楽しい芸能活動?!

大学の大先輩が経営していた音楽事務所に所属し、私の新しい音楽人生が始まりました。

仕事の内容は、スタジオでのCM録音や、ラジオ・テレビ番組への出演が主でした。

それまでは、テレビでしか観たことが無かったタレントやアイドル歌手を真近に見られて、
しかも一緒に仕事が出来る(と言ってもバックコーラスですが・・・)ので、初めはミーハー
感覚で喜んでいましたが、次第にプロの厳しさも感じるようになっていきました。

楽譜は本番当日に渡され、あまり練習時間もなく本番に臨みます。楽譜の初見力と正確な
歌唱が求められるのです。

華やかな舞台が大勢のスタッフによって作られるのを目の当たりにして、その大変さと
素晴らしさ、プロの魅力を大いに感じたものです。

大学では学べなかった音楽業界の色々・・・若さを買われての華やかな一時期で、それは
数年のことでしたが、最大の収穫は 「ポピュラー音楽への世界」が広がったことでした。

家庭生活

結婚、出産、育児・・・独身時代には想像の出来ない生活が待っていました。


もっと眠りたい!睡眠欲との戦い。

人生の中でこれほど自分以外の為に時間を使うことがあるでしょうか!!

音楽は、やりたいけれど自分の時間が無い。

頭の隅っこでは、たしか〜女性は独身の頃より一人目を出産したくらいの時期が、身体が
出来上がり、声もよく出るようになる〜という説を思い出してはいました。

でも日常生活に追われ瞬く間に日々は過ぎて行きました。

二人の子供達が幼稚園に通い出したころ、毎晩三人でお風呂に入いると、あることが
習慣のようになっていました。

それはハモりの練習。ドミソ・ドファラ・シレソ・ドミソ・・・・三和音で私が「ド」、息子が「ミ」、
娘が「ソ」、で、ハモらなければパートを変えて、ハモったらお風呂から上がるという具合。

子供達はどう思っていたか知りませんが、 周りの迷惑顧みない私の 「ハモりぐせ」 は
健在だったのです(^v^)

二人の子供達には当然のようにピアノを習わせました。


ついに開眼!

音楽は、いつも生活の中に溢れていました。

でも、「生きがい」とか将来の「夢」が無く、このまま私はオバアサンになってしまう
んだろうか・・・子供の成長と共に、自分の生き方に迷いを感じるようになっていき
ました。

自分のなかにくすぶっていた何か・・・それは大学時代から持ち越している「発声」に対する疑問だと言うことに内心気づいていました。

子供たちが、中学に入学したのを機会に思い切ってボイストレーニングを受けて
みることにしました。

私はもう40代になっていましたが、ボイトレを受けて、その「面白さ」にどんどん惹き
込まれていきました。

   〜なんて具体的なんだろう!!
   〜なんて新鮮な感覚なんだろう!!
   〜今まで頭で考えて歌っていたから、思うように声が出せなかったんだ!
   〜身体が使えていなかったんだ!

自分の声が変わっていくことの喜びで、「発声」に対する苦手意識は吹き飛んで
しまいました\(^o^)/


10年余りの間に、3人のトレーナーから学びました。

どの先生にも共通していることは、

    ◆ 私の声を決して否定せず、引き伸ばそう、成長させてやろうという
       情熱に溢れておられたこと。
    ◆ そのために必要な、具体的で確かなメソッド(方法)を持っておられた
       こと。
    
「苦手意識の払拭」によって私の人生は、プラス思考に変わりました。

            この喜びを他の人たちにも伝えたい!
        かつての私と同じように「発声」で悩んでいる人たちに! 

今年、私は「還暦」を迎えます。
還暦は「ゼロ」に戻る年だそうです。
「ゼロ」に戻って、多くの人たちの「声の改善と成長」に新たな情熱を注いで参りたい
と思います。

   
「立花明子の歴史」を読んでいただき有難うございました(*^_^*)







東大阪(布施)
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